my base
chikuhoku vill.
02.11.2023
こちらへ来たばかりの頃、とにかくいろんな人に自分のことを覚えてもらうためにあちこち挨拶してまわったりしていた。
私は社交的な人間ではないし、人との出会いは自身の日々の活動の延長線上で、必要なタイミングで必要な人と出会うものだと信じているから、その「飛び込み営業」的なスタイルが少しだけつらく感じることもあったりした。

それから半年ほどが経ち、ひとつの設計プロジェクトを主導して計画をはじめた頃から、自然と人との繋がりが広がっていった。
その中で、自身の地盤が思っていた以上にしっかりしていたことに気付かされる。

正直、友人に「るりこは何してるの?」と聞かれても「わかんない」と答えちゃうくらい訳わからないことばかりしているし、自分が何者かもわからない。そんな感じだから、もうふらふらしまくっている私の地盤なんてグラッグラだと思っていた。

でも全然そんなことなかった。

「篠原聡子という女性建築家がいる」という一言で日本女子大学への入学を決めたそのときからすでに私の地盤は少しずつ固まりはじめていたのかもしれない。
そしてこれまでの多くの人との関わりの中で、それはいつの間にかしっかりとした揺るがないものになっていた。
だからこそ一切繋がりのなかった土地へ移っても、これまでの関わりが関わりを呼んで、「必要な」繋がりが「自然と」広がっていったように思う。

もうすぐこちらに来て一年が経とうとしている。
ここで過ごす時間が少しでも、意味のあるものになるようにしたい。

photo by Mina Kato
life
chikuhoku vill.
07.30.2022
随分前に友人に薦めてもらった「little forest」という映画をふと思い立って観てみた。
当時、どんな映画か説明してもらったはずなんだけれど全然忘れていて、見始めたら「え、これ、めっちゃ田舎暮らしの映画じゃん!」となり、今私が暮らしている場所と重なることが多くて驚いた。

東北地方の小森という地域で暮らす主人公の女性が、スーパーもコンビニもない田舎で自給自足に近い生活をし、自分の畑や周りの野山で採れた季節の食材をつかって毎日の料理を作る。映画の中で作られている料理の中には手の込んでいるものもあるけれど、それ以外の多くはこちらの暮らしでは当たり前のように日々作られている。
もしかしたらこの映画で表現されていることが「丁寧な暮らし」と括られてしまうかもしれないけれど、筑北村に暮らし始めて、それが全然「丁寧」なことではなく、「当たり前」のことなのだと感じている。

こちらに来たばかりの頃、春の山菜を毎日のようにたくさんいただいた。これまで、自分で料理したことがなかったので、山菜はアクが強いことも知らなければ、もちろんアク抜きの方法も知らなかった。だからネットで調べたり、教えてもらったりしながら、毎日毎日アク抜きに追われていた。「お願いだから調理済みの山菜をちょうだい!」と思ったほど。
梅雨の前には、大量の青梅をいただいた。これまで、梅シロップは作ったことがあったけれど、スーパーで買った青梅なので虫に食われたものはないし、綺麗に洗ってある。だからサッと洗って、氷砂糖と漬けて終わり。でもこちらでいただく青梅ではそうはいかない。
まずは梅をひとつひとつ手にとって虫に食われているものははじき、ヘタを取る。これが1kgとかではなく8kgとかだから大変。全部梅シロップにするわけにはいかないから、教えてもらったカリカリ梅を作ってみたら、これがまたもっと大変。水に半日漬けてアクを抜き、塩で30分以上揉み込む。そこからまた一晩水に漬けて取り出し、ひとつひとつ種を取る。そのあと砂糖と漬けて、10日ほど置いたらこれまたアク抜きした赤しそを加えて保管する。毎日、仕事が終わって帰ってきたら梅仕事をしていた。

どれもこれもとんでもなく時間と手間がかかる。でもそうしないと美味しくならない。仕事終わりで疲れていて、はやく寝たくて塩揉みの時間を短縮してしまったから、カリカリ梅がカリカリにならなかったように、ちょっと手抜きをすると驚くほどうまくいかない。
加えて、こちらで暮らす人の多くは自分たちでいろんな野菜を育てたり、田んぼで稲を育てたりしている。土を耕すところから始まり、野菜やお米が出来上がるまでの行程をひとつひとつ書きだしたらキリがないほどに、毎日のちいさなちいさな手間隙が連なった作業なのだ。毎年毎日、これを長年くり返しているのだから本当にすごい。

今、このタイミングでこの映画を観れてよかったと思う。きっとまだ東京にいた頃に観ていたら、「こんな丁寧な暮らししたいわ~」とぼやいて終わっていたと思うから。
仕事をしながらだとなかなか時間をかけられずに手を抜いてしまいがちだけれど、可能な限り、毎日いただく食材とちゃんと向き合って、ちゃんと手間隙かけて美味しくいただきたい。いただく野菜を育てた人のことを知っているから余計にそう思う。
place
tokyo
07.07.2022
私は昔から、住宅というものが好きで、
だから建築学科ではなくて住居学科を選んだというのもあるし、住宅建築を主に設計している建築事務所を就職先に選んできた。土浦亀城邸や石津謙介邸、阿部勉邸、代田の町家、森山邸、、あげたら切りがないほどに好きな住宅建築がある。

でも最近、友人に「人の居場所に対して真摯だよね」と言われて、もしかしたら私が好きなのは「住宅建築」というよりも、「居場所」なのかもしれないと気が付いた。

確かに、住宅建築の中でも、新築のまっさらな状態の「作品」としてのものよりも、人の暮らしが感じられる「住宅」としてのものが好きで、もっと言うと「部屋」が好き。
でもそれは住宅建築に限ったことではなくて、そこら辺のアパートの一室でも、住人の大切にしているものや趣味趣向で溢れて、さらにはその人の何気ない行動や癖、性格が垣間見れるパーソナルな空間が好き。それが「居場所」ということなのかもしれない。


彼と離れて暮らすことになって、
お互い初めての一人暮らしを経験している。

彼の部屋はまだまだ改装中だけど、
誕生日に贈った植物をその時々で窓辺の日当たりのいい場所に移動させている様子や海辺で拾ったお気に入りの石をナプキンウェイトにしている様子、お布団をきちんと畳んで積み重ねている様子などを見ると、彼が何を大切にしているかとか、彼の几帳面さが見られて、彼の部屋に〝お邪魔する〟のが毎回とても楽しみでもある。

一緒に暮らしていたときには見落としていた部分を少しずつ回収しているような感じがする。


「居場所」は、その人のことが知れて面白いし、
よりその人のことが愛おしく思えるからとても好きだなぁ、と思う。
mist
chikuhoku vill.
06.22.2022
土砂降りの雨のあと、車を走らせて東山へ。
深い霧があっという間にあたりを飲み込んで真っ白に。
霧がどんどん迫ってくる様子がとても幻想的で恐ろしくもあった。

こんな場所にも、人の営みがある。

それだけで感動してしまう。
water
chikuhoku vill.
05.25.2022
氷雨が降った日。


昔、通勤途中の道端にすずめが死んでしまっているのを見つけた。
真夏の暑い時期で、アスファルトの上に放り出されているのをそのまま通り過ぎることができずに、近くの植え込みにそっと置いた。
その翌日、同じ道を通ると植え込みにホースでたっぷりとお水をあげている人がいた。朝の光を反射して、きらきらと輝く水を浴びて活き活きとしている植物たちのすぐ下で干からびていたすずめが、潤いを取り戻して生き返るんじゃないかと一瞬思った。
そのくらい、そのとき水に「生命」を感じた。

青々としてきた山に激しく降りそそぐ雨を眺め、きっといまも山奥のどこかで命を絶やし横たわっている動物が被毛を濡らしているのだろうと想像しながら、ふとそんなことを思い出していた。
sponge
tokyo
04.29.2022

こちらでは自然が豊かで穏やかな反面、刺激がなにもないから、東京に帰るとたくさんの刺激をスポンジみたいに吸収してしまって、自分のなかの満たされていない部分がどんどん潤ってやわらかく満たされていくのがわかる。
今回の帰京で訪れた森山邸では、目に入るものすべてが美しくて魅力的で繊細でかわいくて、本当に、「苦しい」という言葉しか出てこなかった。

もう水が滴り落ちてしまうくらいに素敵なものを吸収して自然のなかへ帰ると、新しい刺激に上書きされることなく、ゆっくりと自分の中で消化していけるからとてもいいな、と思っている。
いまはまだ、たぷんたぷんに吸収して「苦しい」で終わってしまっているけれど、それで終わってしまわないように、もう少し、少しずつ、この地に浸透させていけたらいいな。


vapor
chikuhoku vill.
04.05.2022

4月1日、初出勤の朝はうっすら雪が積もっていた。
東京を離れるとき、満開に桜が咲いていたのに、こちらはまだ梅の花すら咲いていなかった。それから数週間のうちにあちこちで草木が芽吹き始め、あっという間に景色が一変した。毎日変わる景色に、毎日感動する。

寒い日が続いたあとに、気温が上がる日は山から畑から、地面という地面から蒸気があがる。あたり一面に立ち込めた蒸気で真っ白な世界が広がる。私はその景色が特別に好きである。
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